危うい恋と気高い愛に向き合い続ける女の本性
「女」を妨げるもの
「女」という漢字は、両手をしなやかに重ねてひざまづく姿から出来ているらしいと聞いた事があります。
なんて、なんて露骨なんだろう。
「好き」も「嫌い」も、「妄」想しても「嫉妬」しても、つきまとう「女」。
部首が「女」の漢字を眺めているだけで、私たちが背負う羽目になった疎ましい重さに目眩がします。
今は昔、田んぼで力を振りかざしている者たちが作り上げた文字というシロモノはことごとく残酷。
でも、皆は本当にそんな「女」が良いの?
容易く跪いてくれるような「女」が好きなの?
「女」として生きる覚悟。
「女」が愛を歌う強さ。
これこそが理姫さんの書く歌詞の醍醐味なのです。
進化したアカシックの魅力たっぷりの「Dangerousくノ一」。存分に味わってください。
M1 「CGギャル」
可憐で強烈な拳の連打、M1「CGギャル」。うねるベースリフによって幕は切って落とされます。
旋律の限界ぎりぎりに詰め込まれた歌詞は、強い恋心の行き場を無くして危険な状態に陥る様と連鎖しているようです。
あまりにギャル。とんでもなくギャル。
チュープリという単語を久々に耳にしたけど、その言葉が出現しても違和感がないほど、あまりにギャル。
なのに、とても痛々しい。
「綺麗になったら言うんだ
そうね一昨日来やがれみたいな」
なんて狂おしくて切ない未練がましさ。
かと思えば
「本当の気持ち教えて
お利口さんにしているからずっと」
バブル期を演じるバチバチギャルには思えない、泣いて母親にすがるよう剥き出しになった弱さ。
意地っ張りギャルと純粋少女が交錯する世界。「女」がどれほど複雑で真剣に闘ってるか、思い知らせてやると言わんばかりの戦線布告です。
M2 「サイノロジック」
今後のアカシックの核になるようなキラーチューン、M2「サイノロジック」。これをためらいなく2曲目に持ってこれる余裕に脱帽です。
今までのアカシックになかったような心地よい清らかさと疾走感。
なのに歌詞を読むと、え、この曲がこんなに切ないなんてと面食らうこと必至。
「セーシェルのあたし」、「月を小指に連れてあくびする昨日」などなど、80年代歌謡曲のような汚れのない言葉が耳に注ぎ込まれます。
その一方で「ヤニ臭い程サイノロジー」なんて言うところが理姫さんらしいナマの感覚。
「半端なガラクタになっていく気がするの」
透明さに身を委ねていると、急にこういうフレーズが胸を刺してくる。やっぱりキラーチューン。
M3 「香港ママ」
言わずもがな第1印象は、踊りたくなる遊び心!
けれど、隙間に入り込むフレーズが格言めいていて、油断していると痛い目に遭う。それがM3「香港ママ」。
「人生ほとんど酔拳」とか、「どうして港は香るの」とかね。
蝶のように舞い、蜂のように刺すとでも言いましょうか。
M4 「溺愛」
邦楽の歌詞って「好き」「愛してる」を多用すると非難される傾向があると思うんです。けれど、それはおそらく「好き」「愛してる」という言葉そのものに責任はないんですよね。
その言葉が出てくるまでの描写や表現があまりにストレートすぎたり、工夫を凝らしていないように感じられたりするときに「愛してる」ばっかりだな!と揶揄されてしまうような、そんな印象があります。
ですがこのM4「溺愛」は、「どれほど好きか」という表現が見事なものですから、「愛してる」という言葉がサビに鎮座しても嫌味にならないんです。
「片目で見ても ほどほどにしても
恥ずかしくても ほっといても好き」
愛の深さは容易く想像を絶するのです。
最後に「好きかも」と照れるように歌うところが、前代未聞の愛の大きさに自分でも驚いているようでキュン。
M5 「ベイビーミソカツ」
愛している。けれど、満足していない。
恋愛の歌って「これから」と「さよなら」がどうしても多くなるのですが、実際恋愛してみると上記のような気持ちの方が圧倒的に多くありませんか。
好きでいたいのに退屈してしまう、そんな絶望には届かない憂鬱さが胸いっぱいになるとき。
M5「ベイビーミソカツ」の歌詞はそんな気持ちをあぶり出します。
花火だって、朝陽だって、見ているものは同じでも、気持ちは移ろいでしまう。
そんなやるせなさが詰まった1曲。このアルバムの中の「どうして私のことこんなに知っているの」大賞です。
M6 「真夜中のクローンラベル」
奥脇達也氏のセクシーボイス炸裂。
気まぐれに浮遊する音たちの暗くて柔らかい世界。
よくわからないタイトルすらお洒落。
それがM6「真夜中のクローンラベル」。
もう、持っている武器は先に教えておいてくれ。じゃなきゃ不意に心臓を射られてしまう。
悔しいのは、相手に対してなのか。それとも自分に対してなのか。
終わらない後悔や自問自答が続くかと思いきや、「明日も仕事だ寝なくちゃ」と締める。
そんな虚しいやり過ごし方まで含めて、とてもリアリティのある気だるさ。
アカシックが作る世界が、アルバムを出すごとに拡大している実感を得ます。
M7 「女」
「君が思う イカシタ女
あたしが絶対見せてあげる」
このアルバムの真髄、M7「女」。
こちらは「溺愛」とは対極で、「好き」「愛してる」を使わずに感情の強さを表現し尽くす曲です。
君の理想(「イカシタ女」)にはなりたいんだけど、決して自分らしさを崩したり、へりくだったりする訳ではないんです。格好良い。かと思えば時々見える素肌みたいな本音が超かわいい。
M8 「オールドミス」
気高くて優しくて凛々しくて、嫌味のない色気もあって、とにかくそんなステキな形容詞たくさん並べたくなるような魅力目白押しのM8「オールドミス」。
局地的な感情を歌っているというよりは、まるで座右の銘として携えたいような、街中でへこたれず歩くためのBGMにしたいような、押し付けがましくない自負がある曲。
「オールドミス」とは結婚してない売れ残りという意味なのですが、決して自虐的ではないところが素敵。
気ままに、誇らしく。
これぞ、令和の時代のスタンダードになってほしい曲です。(発表時は平成27年ですけど)
M9 「さめざめ」
今までの作品で見せてきた愛の生々しさ、忘れたとは言わせないわよ。
そう言っているかのようなラスボス、M9「さめざめ」。
先程までの濁りのない水気が突如血と涙に塗り替えられたごとく、露呈する絶望感。
懸命に立ち上がろうとするものの、苦しくて苦しくてもがいていることがひしひしと伝わります。
「糞だるい不在の輪郭を抱きしめている朝だ
また朝だ 朝だ」
「寂しい」という感情をどうやったらこんな風に書けるのか。
随所に言葉の化学反応が起きていて、とんでもなく痺れます。
「あたしはピンヒールに命がけです」
「関係をまた愛したいという趣味の悪さ」
愛の重さ、愛ゆえの憎しみ。
愛と自己の間で揺れ動く不安。
理姫さんの必殺技です。
本当の「女」の姿
「女」という言葉は、成り立ちから考えると私たちを閉じ込める監獄のようです。
けれど、「女」ってもっと、本当はもっと深く、広く、繊細さも大胆さも兼ね備えていて、黙って跪いてあげたりなんかしない、自由な存在。
誰かと私を好きでいる気持ちに素直でいられる存在。
例え危うい恋であっても妥協しない存在。
そんな真っ直ぐな生き方を、恋の仕方を感じられるアルバムが「Dangerousくノ一」です。
宵の街で生まれた「コンサバティブ」、尖ったピンクオーラ満開の「プリチー 」と比較して「落ち着いたね」という印象をこのアルバムにお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
でも、それは大きな勘違い。
むしろ今作は、理姫さんの視線がこんなにも世界の隅々まで届いていて、アカシックの演奏力がそれを表現し尽くしていることを思い知る衝撃作なのです。
最も危険なのは、この作品を聴かずに終わることかもしれません。
公式弾いてみた
公式踊ってみた
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