あの夜酔い潰れて泣いた人が、全てを晒して歌う愛
大人になったら欲望を捨てていくの?
大人になる、あるいは、大人になったというのはどんなときなんでしょうか。
投票行って外食したら?
僕の体が昔より大人になったことに気づいたら?
解らず震えている15の夜を「そんな時代もあったね」といつか笑える日が来たら?
いつまで子どもで、いつから大人なのか。
境目があるようでない、不思議なこと。
私たちはよくわからないまま、ビールを飲んで大人になっただの、お肌の曲がり角が来てしまっただの、大人になった気分になっています。
そして、「もう大人なんだから」とたくさんのことを諦めていきます。
音楽についての評価も、あるとき急に過渡期を迎えます。
丸くなった、落ち着いた、なんて言い方で、私たちは勝手にあれこれと人の音楽に年輪を数えだします。
確かに、たとえアーティストやバンドマンであっても、デビュー初期の鋭利な欲望をむき出しにしたまま何年も活動している人たちは少ないのかもしれません。
そんな風に思われそうなタイミングで、「エロティシズム」という、欲望をごっそり取り出したような単語をアルバム名に据えたアカシック。
刺激的であり、挑戦的。
曲がポップで丸みを帯びた反面、欲望を描くエッジさが強大になった印象です。
積載荷重ぎりぎりに詰め込まれた数多の曲を紐解くことで、私たちは大人になっても心に住み着く欲望、すなわち愛の重さを思い知ることになります。
大人になったら禁欲的に生きなさいなんて、誰に言われたの?
そんな問いかけが聞こえるような、アカシックの最新アップデートを目撃すること必至です。
M1 「憂い切る身」
今までの活動全てを背負いこんでアカシックが闘いを挑んでいる。
それが私たちの心に克明に刻まれる。そんな曲、M1「憂い切る身」。
理姫さんの「愛」についての定義は、従来「あなたと私」の世界の中にあるものでした。
この眼差しの間には誰も不可侵であるという執念深さが滲む、そんな世界。
しかし、今回私たちは恐ろしい幕あけに気付かざるを得ません。
理姫さんの「愛」の定義は、世界、歌、脳内に描く理想、死ぬまでの人生すべての中に移動したのです。
「これが一途か 気が狂いそうだ」
そのすべてのものへの「愛」を抱きしめて、先行きの見えない大海のような人生を泳ぐ覚悟。
本当に向き合っているからこそ、「気が狂いそう」と吐露しているのではないでしょうか。
「赤い海」とは何か。
競争の激しい既存市場か、あるいは、欲望がひしめき合う現代社会か。抑えきれない恋心なのか、それとも、理姫さんの握りしめる「愛」のすべてなのか。
何通りも答えがあるような気がします。
このアルバムこそが、この曲こそがまさに、「鍵付きドル箱」。
海底に沈むような絶望を濁さずに表現し尽くしてくれる理姫さんの言葉は、いつも私たちの心を守ってくれるのです。
アカシック「憂い切る身」2018.12.20@渋谷ストリームホール
M2 「いちかばちかちゃん」
このM2「いちかばちかちゃん」を単に「メンヘラ」「ヤンデレ」と形容するのは損でしかありません。
確かに、「絶対約束判子ください」は結婚を暗喩していそうだし、「紅ひいて歌う世界」は理姫さんがステージに立つ様を彷彿とさせます。理姫さんお得意の「ノンフィクション」作品です。
しかし、恐ろしいのは生々しさだけではありません。
日常のどこをトリミングすることで、狂った心を描写するのかという編集能力が卓越してます。
「高い苺冷蔵庫の中
風邪ひかないで あたためて食べてね」
私が鳥肌立ったのはここ。
高い食べ物、可愛い苺、食材を傷めないようにする冷蔵庫、体を労わる言葉と温かい食べ物。
分解すると、愛している人にしてあげたいこと、渡してあげたいもの、ごく自然なことばかりです。
それがどうだ。
全部を無理矢理直列回路で繋げたことにより、心遣いはただの暴挙に様変わりします。
愛はひたすら行為や物を足し算するだけでは報われない、という虚しさが痛いほど沁みます。
そりゃ、ここまで気が狂ってれば「同じシャンプー」(ということは女物のにおいがするシャンプー)使わせて他の女からマウント取りたいし、「威嚇ふぁぼ」(つまり他の女のSNSは隈なくチェックしている証拠)もかましてやりたいし。
統合し切れていないような歌詞に見えて実はとっても理論的に見えたりする、技巧派の歌詞です。
それを一発撮りでRECするという恐ろしいことをしでかすアカシック。演奏も勿論技巧派です。
M3 「邪魔」
こうきたか!と思わず叫んだM3「邪魔」。
今までありそうでなかった、シャレオツ闇ロック。ミディアムテンポなのに心臓が弾むように昂る、ライブでも殺傷力高い曲。
「風に舞い踊った
花びらは今日
アスファルトに降伏して ゴミになりました」
このフレーズの無駄のない美しさ、虚しさ、邪なものに屈服してしまう悔しさ。
急に幻想が荒っぽい現実に引き戻される落差まで、完璧な表現だと思います。
ラスサビ前の、前半部分が違う表現になったバージョンまで含めて計算高い。
抽象的なようで、所々刺してくる場面ばかり。
「惨めが代わり番をしただけでしょ?」
「骨を
血を
飲んでも
あたしだけのものにできない」
一言も言い返せない、大ダメージの攻め。責め。なんと心地よいダーク。
アカシック「邪魔」2018.12.20@渋谷ストリームホール
M4 「裸-nude-」
曇天からの晴天が一番澄み渡って見える、そんなポジションの曲です。M4「裸-nude-」。
「愛してるのに
嫌いになって
息止めて逃げるのお仕舞い」
「大人が裸になるの
どうして駄目なの」
足枷を外して、なにもかもを抱きしめたように歌う理姫さんから出てくる言葉は、上手く大人になれない私たちの核心を貫きます。
なんで大人って、いっぱい色んなことを経験して、色んな知識を得て、失敗も成功も重ねてきてるのに、下手に取り繕う性格をずっと治せないんでしょうか。
そんなことしていたって、救われる訳でもないのに。自分への嘘が止まらなくなるのに。
そういう私たちの下手くそな成長が見透かされそうで、聴き続けると胸が苦しい。でも聴いちゃう。
「ケバさは強さじゃないの護って」
よくぞ言ってくれました。
くだらない企みとか、偽った笑顔とか、要らないものは捨てられたら良いのに。そんな勇気を優しく与えてくれる曲です。
M5 「私」
突如「コンサバティブ」な夜が回想されるような世界。
それでいて、「今」の理姫さんだからこそ歌えるような重み、M5「私」。
「好きになった男には女がいた」
話の筋書きだけ述べるなら、このワンフレーズで終わりです。
しかし、「失恋」がもたらすダメージとは、単に相手を手に入れられない悲しみだけではない。理姫さんはそこを実直に描き出しています。
自分そのものを否定されたような、やり切れなさ。
今までの人生がひっくり返ってしまうような、絶望、後悔、自己嫌悪、憎悪。
つまり、失恋はアイデンティティの崩壊の危機ですらあるのです。
この歌詞読んで、「あ、私がいる」って思わない女性はいないんじゃないでしょうか。
M6 「マイラグジュアリーナイト」
欲深く生きる心を否定せず、「生き様」と言い切る強さ。
這いつくばっている絶望を、貪欲な渇望へと生まれ変わらせようとする信念。
このアルバムの心臓部、M6「マイラグジュアリーナイト」ではそんな想いが詰まっています。
「欲望に従い
贅沢に悩み
あたしの生き様をさ 行け」
悩む、という言葉から消極的な印象を拭い去ることは容易ではありません。
苦しくて、光が見えなくて、不安になって、葛藤して。
私たちは、悩んでいるということは先に進めていない状態、足止めを食らっているようなものだと考えます。
しかし、「贅沢に」という言葉が、その悩んでいる様すら絶対的に肯定します。
整理整頓できていない脳内でも、絡まった配線コードのような感情の葛藤でも、その思い悩む夜も無駄じゃなくて、かき消さなくて良い自分なのだという肯定。
美しいメロディーの隙に垣間見える、狂暴なほどの強さ。
恋の痛みを酒で塗り替えてきたような初期の歌も併せて聴けば、この曲が単なる曲風の「変化」ではなく世界がひっくり返るような「進化」ということがまざまざと確認できます。
M7 「ブラック」
愛は呪いであって、執着であって、嫉妬であって、相互関係を求める虚しい行為であって、自己嫌悪との闘いである。
そういう粘着性のある恋を語るはずなのに、余りにもキラーチューン。
そのアンバランスさも愛おしい、M7「ブラック」。
「こんな敵だらけの世界から
狂いそうなベッドまで
パスポートひとつで飛ぶのよ
全部棄てな」
JPOPの教科書に載せるなら、このフレーズは「君とならどんなことも出来そうな気がする」的な部分だと思います。
しかし、理姫さんは「全部棄てな」と突きつけることで、相手の覚悟も引き換えに要求します。
依存し合いたい。一方通行な想いになど気づきたくない。
だから、つまんない話をするあなたも、あたしのこと知らないあなたも嫌い。
好きだけど嫌いではなく、好きだから嫌い。
「重い女」なんて不名誉な称号が世間にはありますが、誰もがこんな悲しい呪縛から解放されたいだけなんです。
「一生分の名前呼んで」なんて懇願するほどに。
M8 「LOVE&YEN」
このブログを書いている2019年は早いもので令和の世になりましたが、M8「LOVE&YEN」では昭和から平成に変遷するときのような、ちょっと見栄っ張りな煌びやかさと茶目っ気が魅力です。
遊び倒しているような曲ほど、散らばる言葉遊びが相変わらず上品なのがアカシックらしさ。
「海外旅行して かぶれて
帰ってくる馬鹿みたいに」
なんていう毒の吐き方も、曲の雰囲気を壊さないのにリアル。
マウント女子のSNS見ている気分。
おふざけではぐらかされた「ご縁ちょうだい」が、令和にも通ずる現代の寂しさを暗示しているようです。
M9 「オレンジに塩コショウ」
「うだるような」、という言葉をまるごと曲にしたようなM9「オレンジに塩コショウ」。
(一時は円盤化されないのではないかと不安でした)
「タイムライン更新しないで ずっと マジで」
SNSはどれだけ私たちの恋を邪魔してきたのでしょう。
知らなくて良いこと、無言のヒント、邪推。
そんなこと/なんでわざわざ/知らなきゃいけないの、の略でしょうか。SNS。
話は変わりますが、「遊び足りない気分を茶髪にして」など、相変わらず理姫さんは夏の演出が得意。
スーパーサマーラインに続く、センチメンタルサマーです。
M10 「日本の宝」
愛犬への私信、M10「日本の宝」。
と言い切ってしまいたいところですが、滲む愛の本質がちょっと深い。
それが思いがけない聴きごたえを生み出します。
「シャバのチリも絵に変えてくれた」
飼い犬がもたらした功績をこのように表現していますが、対象に限らず愛の効用ってこのフレーズが言い得ているのではないかと思います。
愛がなければ、街を眺め直すことはなかったかもしれない。
廃れていくことに不安を抱かなかったかもしれない。
どんな場所にも彩りがあることを理解できなかったかもしれない。
欲望を根掘り葉掘り見つけ出してしまうこのアルバムだからこそ、この曲があって良いと私は勝手にしみじみ思います。
M11 「愛×Happy×クレイジー」
「愛」と「Happy」まではわかる。
その次に「クレイジー」がよく続いたものである。
M11「愛×Happy×クレイジー」は、アカシックのメジャー1stシングルであるというプロフィールを抜きにしても、背筋の通った覚悟がガツンと伝わります。
それでいて、M1「憂い切る身」、M6「マイラグジュアリーナイト」と異なるのは「絶望してたってつまんないじゃん」と言わんばかりの悟りみたいな部分。
改めて考えてみると、理姫さんの歌には「べき」「ねば」がない。
私はこうしたいんだ、という純粋なエゴイズム。これが全ての始まり。
周りにどう思われているとかいないとか、そんなことは蚊帳の外。
私も、愛するあなたも、幸せなら良い。例えそれが傍から見たら狂っちゃってても。
そんなふうに考えると「愛」と「Happy」の次は確かに「クレイジー」なんです。
「くだらないもの 大事に愛してる」
この言葉が凝縮したMVもぜひご覧あれ。
M12 「エンジェルシンク」
何回も聴いてるのに、いまだに泣かずに聴けないかもしれない。M12「エンジェルシンク」。
実は初期曲のようですが、時は満ちたと言わんばかりの登場。
「目が乾くほど暖めてきた部屋に帰るわ」
素直に泣くって言えないシリーズ…好き…
もう…わざとらしくドライアイにならないでよ…何時間前から暖房入れっぱなしにしてんだよ、電気代どうすんだよ来月後悔するぞ…(やかましい)
相手に施してきたこと、その思いが報われなかったこと、泣きたいこと、泣くって言いたくないこと、一文で氷解する数多の悲しさ。
未練とは、みっともない。
そんな先入観は崩壊します。またしてもたった一行で。
「思い出を嫌わないで」
今の私たちに、未来はない。
それでも、重ねた思い出に罪を着せないでほしい。
愛し合ったことは嘘じゃないから。
そんな余りある未練が皮肉にも美しすぎて、そう易々と瞼を開けたままにはできません。
M13 「you&i」
「エロティシズム」裏リード曲、「you&i」。
いつか、終わりは来てしまうこと、別れを避けられないこと、それをどことなく感じているからこそ、何もかもを守りたいと感じているような、そんな切ない優しさが響きます。
あなたが望むのならば何でもしてあげたい、そんな無償の愛が曲中で語られます。
しかし、その願望はどこか歪んでいます。
「このまま遠くまで 電車に揺られて
一緒に逃げても
but i will say good bye to you」
逃避行は、いつか終焉を迎える。そして、その切り出しは私からしてしまう。
なぜ、さよならを回避できないのか。
「小さな呪縛が いつか手を滑り
苦しめないように」
醜い愛の性質が、この部分から覗き込んでいます。
どれほど尊く思っても、大切にしたいと願っても、何もかもをしてあげても、いつか私からあなたを「呪縛」してしまう。
独占欲、依存願望、エゴ。
そんな予感から、距離を置くことが最も幸せではないかと不安になる。
理姫さんの心は私には悲しいくらいにわかりませんが、何となくそんな場面を想像せずにはいられません。
そんな二人を暗喩するものは、大海原と月明かり。
月明かりの姿形は映っているのに、触れることは決して許されない隔たり。
M14 「エロティシズム」
余韻の中に漂うバッドエンドの気配、M14「エロティシズム」。
アルバム名を冠した曲だけあって、欲望の果てが遂に露呈します。
比喩的表現が踊り、具体的な生活感をことごとく排除した世界観。
呟くように、消えそうな声で絞り出す言葉。
暗い洞窟の中を歩むように聞き進めると、突如恐ろしい問いかけが聞こえてきます。
「あなたを好きになって 本当に良かった
助けて もういいでしょ」
このちぐはぐ具合はどうしたって言うんでしょう。
どこが本当に良かったって言うんでしょう。
「地獄だろうと ついてきて」
ちぐはぐ部分とこのフレーズが示すもの。
それは、愛が底なし沼だということの証明ではないかと私は考えています。
終わらない、好きになっても好きになっても終わらない。
本当に本当に好きだけど、愛しているけど、まだ好きになる余地がある。
それに気づいてしまったとき、いくら相思相愛でも、この愛の苦しみは終わることがないのだということが同時に理解できてしまいます。
どこまでも、どこまでも、欲望はついてくる。それに、向き合い続ける。
それこそが、この歌の持つものであり、タイトルの意味なのかもしれません。
ずっと、この歌にカラスがどうして出てくるのか、分からなかったんです。
このアルバムについて何時間も何時間も考えて、候補を1つ。
「カラスが鳴くから帰ろう」、それはつまり家に引き返す合図。
「あの校庭の地下に カラスはいくつ寝てる」
カラスは鳴かない。だから、引き返せない。引き返さない。
埋めたのは、私。
だって、「愛に邪魔なものは消す」のだから。
大人だからこそ、欲張っていい
私、ずっと勘違いしていました。
大人になったら、次第に愛を持たなくなるのだと思っていました。
かつて恋人であった配偶者を粗雑に扱ったり、恋だの愛だのロマンティックな言葉よりも目まぐるしい日常に心を支配されたり。なんとなく、ドラマとか世間話の中に生きる大人には、愛の枯渇を感じていました。
でも、そうじゃない。本当は、愛が心から枯れることはない。
むしろ、私たちはますます愛に貪欲になっていくのです。
かつては、愛は偏っていました。
自分をないがしろにしても、恋を貫く。
あるいは、独りよがりになってガラス細工のような恋に亀裂を入れてしまう。
そんなことばかりしていました。
けれど、少しずつわかってくる。
自分を大切にできないのに、恋人を大切にはできないこと。
私の生き方も、あなたの生き方も、絶対に守り通したいこと。
何か一つを守るのではなく、全部守る。全部愛する。
そんな貪欲で真摯な愛を、私たちは抱いている。
大人になったのに恋の話だなんて、みたいな小言は無粋。
大人だからこそ、いくつもの愛を死に物狂いで守るのです。
そんな生々しくて、美しくて、気高い気持ちを、このアルバムが余すことなく教えてくれるのです。
人生にぜひ、このアルバムを携えてください。
アカシック 2ND ALBUM『エロティシズム』 全曲視聴トレーラー