涙と愛と憎しみの味がする芳醇な短編集
恋を味わう短編集
私、言葉は発明品で文章は化学反応式だと思っているのですけど、恋を「甘酸っぱい」と初めて表現した先人って天才じゃないですか?
恋は口に入れない。味がしない。
なんなら食べ物が喉を通らない。
目で、耳で、少し近づけば鼻と肌で、相手を感じることはできる。
それなのに、一番相手を感じることのできない味覚で、恋心を宿す様を表す。
甘い、苦い、酸っぱい、渋い。
胸焼けする、優しくとろける。
口どけた後、この味はもう味わえないような気持ちになる。
そんな幾多の複雑な味を味わえるアルバム、アカシック「凛々フルーツ」。
フルーツパフェを食べているときの、次は何が出てくるかわからないときめき。
酸味も甘味もひっくるめた味の連鎖は、「私」という女の生き様、結婚への執着、年に似つかわしくなってきた初心な恋心のよう。
初のフルアルバムになったことで、留まることなく拡大していくアカシックの世界が爽快!堪りません。
まるで次々とページをめくりたくなる短編小説のような高揚を、ぜひ味わってください。
M1 「結婚」
苦虫を嚙み潰したような楽器の音を携えて始まる、重量のある曲M1「結婚」。
「君の朗報に乾杯を 流し台に全て捨てる」
題名と冒頭2行の歌詞だけで全てを察することのできるドラマ性。
理姫さん本当にこの歌詞を題材に小説書いてくださいまたそれも布教ブログ書きます。
ちなみにこのアルバム、今まで以上に「冒頭で聴衆を致死させる」能力の高い曲が凝縮しています。
なので聴く前に、ぜひとも自由自在に輪廻転生できるようにしておいてください。
感情は生々しいのに、「罪悪色の朝陽」「午前三時の消灯」など酩酊しそうな語彙のお洒落さも憎い。惚れる。もう惚れている。
「罪悪色の朝陽」ってカクテル売りだしたい。
それバーカウンターであちらのお客様から奢られたら射抜かれる。
感性を研ぎ澄ませて進化したな!と感心していたら、奥脇氏のライナーノーツによるとこの曲はアカシック結成後すぐにできた古株曲だそうです。
恐ろしい。隠したナイフ一体いくつ持っているのでしょうこの人たち。
「君が選ばない全ての ねぇ、何が嫌?」
目の前5cmの距離で睨まれるような愛と憎しみ。
ハートのイヤリングも赤いセーターもコンビニ袋も全部流し台にぶち込むほどの後悔。
深度の強い世界が幕を開け、あなたの心臓を貫くのです。
M2 「8ミリフィルム」
今やアカシックの看板となった、5年の活動の重みを背負うスーパーキラーチューン、M2 「8ミリフィルム」
ちょっと有名にはなったけれど、YouTubeでこの曲を聴いたことのある不特定多数の日本人を正座させて言いたいことがある。
この曲の奥深さを。執念の強さを。ボタンを掛け違えた健気さのような痛みを。
まず、「国道飛ばさないでいてね それだけは忘れないでね」という冒頭。
よく考えてみてください。
大好きなのに、もう一緒にはいられない人。
あなたなら、その人になんて言葉をかけますか?
要するに、冒頭は「元気でね」を理姫さんの言葉で翻訳した結果なのです。
何が怖いかって?
別れる相手の死因になるであろう行為を予言できることですよ。そしてそれを「それだけは」と断言できることですよ。
このフレーズだけで、またしても小説が始まってしまう。
今までの想い出の数、わかりきった相手の嫌なところ、できる限りお節介は言いたくないけど生きていてほしいという、人としての存在を貴ぶ心。
殺傷能力高いフレーズで編み物をしたような歌詞、それが「8ミリフィルム」なのです。
その連鎖の果てに「君の才能が欲しかった 超好きだったのにな」という歌詞が止めをさす、キラーチューンになるべくして生まれた曲。
バタフライエフェクト!!(と奥脇氏がこの曲のライナーノーツで仕切りに叫んでいるので真似してみました実はよくわかっていません)
私個人は、皆が騒ぐ「才能が欲しかった」のくだりよりも「映画見るわ」の一言で泣きます。
なんでこんなに大好きだったのに、映画で泣いちゃったって言い訳しなきゃ泣けないの…?意地はりすぎてない…?
大人になって麻疹になると大変なように、大人になって初心になると拗らせてしまうようです。心当たりありまくる。
あとはもう、聴け!こんなブログ読まずに今すぐ聴け!と言いたくなるくらいメロディーとギターソロとキーボードソロが良い。
絶頂しそうな瞬間が続きすぎて息できない。
JPOPの神はこの曲に確かに宿っている。
それを全部つなぎとめるベースとドラムもセンスの塊。
ドラムの音が最初ひしゃげてるのも、ひねくれた恋の終わらせ方に似合うので大好きです。
ちなみに初期「コンサバティブ」から聞き直すと、「ステレオタイプな未来」が想像できない女性像を鮮明に脳内に描くことができます。結婚と生き様の間で苦しむ、抉られたような感情を携えてぜひ何度も聴いてください。
M3 「サンディバージンディアボーイ」
アカシックはポップである。そう名乗ることを容易く可能にするM3 「サンディバージンディアボーイ」。
私も前にちらりと書いたし、奥脇氏もライナーノーツに書いているけれど「空のブルーは永久ブルーで 不審なチャンスは薔薇の色」があまりにキャッチーで清楚でミステリアスで大好き。
このフレーズが核になる、危うい恋の歌です。
この曲の価値は、「サンディバージン」という造語の素晴らしさから伝わります。
「次の日曜日」には少女に生まれ変われるような恋の始まりと深まり。
その純真さが、「ユニバースいち 愛してる」という本気を生み出します。
初々しい2人の日々に浮足立っていながらも、この恋愛は「贅沢な運命」、つまり自分にはもったいないほどの恋だと何となく気づいている。だからこそ、結末が来るのが怖い。
あなたに捧げる愛の真摯さが、ポップさにくるまれて可愛く歌われています。
M4 「今日から夜は家にいるよ」
「幸せじゃないから死ねない」同様、題名に映画化できる起承転結を既に含んだM4 「今日から夜は家にいるよ」。
自分を優先してきた女性が、それでも相手と過ごす未来を望んで、不器用な愛を抱え込む様が伝わる曲です。
「前髪がよれちゃったり」「野菜中心の何か」など生活の温度がじんわりとしながらも、「あなたのせいで 幸せで狂っていて」と射るような志が垣間見える、ギャルと文学のハイブリッドを作り続けたアカシックらしさがここにもあります。
相手の話、適当に聞き流して返事しちゃうところなんかリアルすぎて監視カメラ。
シンプルな歌詞に隠された奥行を堪能してほしいです。
どうでもいいけどMVの中村倫也さん、卵を手で割っちゃダメです(笑)普通にイケメン料理男子です(笑)アカシックの曲に出てくる男には、たとえMVでも出来れば卵の殻をボロッボロに落としてほしかった。あとボウルとかキチンと使われている痕跡があって「普段誰か料理してるし夜にも家にいるでしょ絶対」感が残念。カップ麺の器くらい置いてて良かったよ…。そしてハンバーグ超食べたい。
M5 「ヨコハマカモメ」
M5 「ヨコハマカモメ」では、アカシックの得意技である毒々しさのある可愛らしさが総攻撃をしかけてきます。はい、すぐやられます。
どうでもいいけど私が人生で聴いてきた中で最も好きなピックスクラッチ部門、第1位。曲に合いすぎ。
「そしてつまらない話が好きよ
平穏な日々のために」
痺れる。私の頭が避雷針になって全ての電撃が集まってくる。
日常のやるせなさと、それに納得していない本心。冷たい目で世界を見つめながら、疼いている何種類もの感情。やはり「怠惰」を書かせたら理姫さんはお強いです。
私的、このアルバムお気に入りフレーズ最優秀賞
「小さい頃の写真で着てた
お花畑みたいな頭に
小説でしか見かけない気持ちで
ピースしてた」
絶句。擦れていないあの頃に帰りたいけど帰れない嫉妬とか後悔とか悲壮感をどうしてここまで美しく浮き彫りにできるのか。さすがです。
M6 「飴と日傘」
ご本人たちも、「夜型から朝型になった」と評価していたこのアルバム。M3とこのM6 「飴と日傘」で、私は特にそれを感じます。
日常と自分の均衡を保つことが、ほんのちょっとだけ上手になったような、どこか大人の恋と景色が広がります。
時に秘め事のような妖しさのある過去を掠らせながら、「ときめき」という素朴で幸福な感情に喜ぶ姿が微笑ましいです。
その中でふとよぎる、「悲しい時も なんとかやってきたんだから」という覚悟。癖のあるポップでセクシーな演奏もぐっときます。
M7 「ギャングスタ」
可愛い。ひたすらに可愛い。どちらかといえば犬派だけどこの曲聴くときは猫派になる。
猫の孤高で気まぐれな姿を甘く歌い上げるM7 「ギャングスタ」。
Hachi作であることも関係してか、コスメの新色出たときのような、新鮮な驚きです。
なんとも妖艶な遊び心。
俳句とか短歌とか、あるいはキャッチコピーなんかがわかりやすいと思うんですけど、短い文章の中に想いを詰め込むのって果てしなく難しいんですよね。
下書き、推敲、取捨選択、他者との比較、心を鷲掴みにされるかどうか。考えなきゃいけないことが多すぎる。
そんな高度な行為の中で選ばれた、とっておきフレーズたちが愛おしい曲です。
「心は急に老いるから
考えずに食べるわ」
M8 「うたかたの日々」
再びHachi作の新色、M8 「うたかたの日々」。大人になって初めて食べた異国のフルーツのような存在。
うなだれるような鍵盤が、憂鬱な孤独の色を描きます。理姫さんの歌詞との相性がえげつない。
終わりも行き場もない感情を描くこと、抑揚もつけられないほど低迷した心を見透かすこと、どちらも相当に難しくて、歌詞も曲もしくじったら台無しになる気がしますがこの曲は見事にその世界を完成させています。
「少し嘘があるわ
何も嘘じゃ無いけど」
さて、このセリフを大物女優に言わせる名作映画は、どこに行ったら見れますか。
M9 「ロリータ」
M8と共鳴はしているけれども、開始早々「奥脇氏にバトンタッチしたな」と理解できる定番カラーコスメ的な曲、M9「ロリータ」。
「コンサバ」「プリチー」から引き継ぐ伝統芸がやってまいりました。
もう、図書館の文学小説の棚に私は顔を突っ込んでいるのでしょうかと錯覚するほどのフレーズの目白押し。
「礼儀みたいなハンカチの折り目」
「資本的夕暮れ」
「花嫁になりたくて
失ってきた芸術」
もう、言葉だけ羅列しても、この毒を飲んで私は棺に入りたいってレベル。
これらのフレーズを繋ぐ文脈になる感情は、はぐらかされたようにどこか曖昧。
だけど、「懸命な赤」を臨む姿勢、それに伴う苦悩、それは理姫さんがいつも伝えてくれる、正直な生き様と恋。
色気ある演奏をバックに、ロマンティックに倒れましょう。
M10 「華金」
そうです、あのJPOP大好物でありアカシックの得意技「明るいのに切ない」です。M10 「華金」です。キャッチ―とセンチメンタルのバランスの良さはM2と良い勝負です、実は。
夜ってなんであんなに人をダメにしてしまうんでしょう。
お酒と一緒で、もともとダメな私だったことが暴かれるだけなんでしょうか。
朝になれば全部わかるのに。虚しい愛だったって。
それでも、刹那的な欲望に溺れたい。
引き留める私より、足を進めてしまう私が勝つ。
「ゆめかわ」チックなパリパリナイトの夢を表しながらも、酒と香水と煙草の匂いが一度に漂うあの「夜」感がせめぎ合ってくる。
引き裂かれそうな悲しさは、せめて歌で明るくしてあげないと歌えない。そんな曲じゃないかなと私は勝手に思ってます。
ライブで聴くと楽しくて頭空っぽになるので、ぜひヘッドホンでゆっくり聴いてみてください。目の下にハンカチ貼り付けながら。
M11 「馬鹿なハスキーエイジ」
全曲ライブ以外では聴けることすら希少価値。M11 「馬鹿なハスキーエイジ」(私はまだナマで聴けていませんお願いです聴かせてください)
歌詞の全てが美しい。幻想的で優雅。
それでいて、やはり「朝になるのを カラスと気づいている」などアカシックらしいエッセンスを加えることも忘れない、憎い存在。
空を見上げるような、漠然とした前向きさ。
悲しいこともきっとたくさんあったし、おそらくこの曲の男女も上手くいかなかったんじゃないかと思えるけど、そんな2人を「馬鹿」と笑えるような心の余裕がちょっとだけある。
恋が終わったら、仕切り直しに旅に出ようか。そんなときに連れていきたい曲です。
M12 「恋は媚薬だなんて冷めるわ」
短編小説がクライマックスに近づいたにもかかわらず、まだ涙と血と汗を搾り取ろうとしてきます。そんなセンチメンタルの塊、M12 「恋は媚薬だなんて冷めるわ」。
M9「ロリータ」に続いて歌詞がロマンティックの宝石箱。
「映画はノワール
慣れ親しんだあたしの心だ」
ってどうやったらその等式思いつくんですか?キレッキレのセンス。
「冷たい床に 頬をあて
繰り返し思い出して 恥じるわ」
この言葉から想定される、絶望に耐え続ける日々。
あなたがいなくて退屈で堪らない日々。
それなのに、心に残る純粋さが恋に対する本気度を示します。
「神様 会いたいいますぐに
熱あがってるの グッときているの」
まだ未練と呼ぶこともできない、燃える愛。まだ相手を憎いと感じることもできず、持て余している熱。
神様に願うしかないような、やり場のない健気さが胸を刺します。
M13 「夢遊」
とんでもない結末でこのアルバムは終わろうとしています。M13 「夢遊」。
サビで対句される
「嫌だ 好きにならないで」
「嫌だ 嫌いにならないで」
の交差が、愛に狂う姿そのものです。ここの理姫さんの絞り出すような歌い方もピカイチ。
「容易い事のように
知らず寝息が欲しい」
つまるところ全ての恋愛は、この願望によって突き動かされているのではないかとさえ感じます。
それを端的に表すことのできる技術。やはりアカシック、売れなきゃおかしい。
歌詞の中で一貫して相手を「あの野郎」と呼ぶところに、恋心はそう単純じゃないことが窺えます。「好き」って一色じゃないですもんね。憎たらしさも、まるごと愛。
「悪い事 ひとつしかわからない」
「最終的絶叫にならないように
あたし遠くにいるしかない
嫌なことしかない」
これがおそらく、この曲の答え。
離れるしかない。
離れれば、「あの野郎」の望み通り。
私にできる唯一のこと。
一番悲しいこと。
呪いかと思うほど真っすぐな愛情の報われない結末を感じながら、意識失いそうになりながら、ひたすら終わらないアウトロに酔いしれましょう。
いつまでも衰えない、瑞々しい愛の歌
アカシックの描く世界観は、いつだって「今」の歌なのです。
若返りを期待したりしない、ひねくれたり逆に素直になったり大人になった女性が「今」見ている景色、感じている思い。
それでも、心はいつまでも老化しない。愛の尊さ、繊細さ、虚しさ、嫌悪感、それを乗り越えた幸福感、すべて享受して、すべてを歌詞にしてくれる。
偽りのない「今」の歌、それがアカシックの歌です。
古びてしまわない感性を、言語の連鎖を、愛を描きつくす態度を、ぜひとも社会に味わってほしい。
こんなに良いバンドがいたなんて、と辛酸をなめるような気持ちで後悔してほしい。
私の平成最後のお願いは、「アカシックを知ってくれ」です。
原点から「凛々フルーツ」までを通して聴くことで味わえる深み。
所々に滲む毒っぽさがたまらない人に。
ポップさ、清らかさ、優しさ。彩り豊富なパレットに目移りしそうです。
※M7、M8についてのお断り
かつてのキーボード、Hachi。
綺麗な長髪にやんちゃな笑顔のイカシタ姉ちゃん。
「ギャングスタ」「うたかたの日々」、2曲の作曲者。
どのように書くか悩みました。そして書いた後である今も悩んでいます。
いなくなった理由のわからない好きな人。
彼女のことを書くことは、美しい思い出なのか。未来の足枷なのか。
それでも、彼女が作った曲への想い、この2曲を含めた全曲ライブをしようと意気込むアカシックの覚悟は揺るがない本物だと信じました。
私なりの拙い言葉で書いたものだと受け止めていただければ幸いです。
月野にこ
危うい恋と気高い愛に向き合い続ける女の本性
「女」を妨げるもの
「女」という漢字は、両手をしなやかに重ねてひざまづく姿から出来ているらしいと聞いた事があります。
なんて、なんて露骨なんだろう。
「好き」も「嫌い」も、「妄」想しても「嫉妬」しても、つきまとう「女」。
部首が「女」の漢字を眺めているだけで、私たちが背負う羽目になった疎ましい重さに目眩がします。
今は昔、田んぼで力を振りかざしている者たちが作り上げた文字というシロモノはことごとく残酷。
でも、皆は本当にそんな「女」が良いの?
容易く跪いてくれるような「女」が好きなの?
「女」として生きる覚悟。
「女」が愛を歌う強さ。
これこそが理姫さんの書く歌詞の醍醐味なのです。
進化したアカシックの魅力たっぷりの「Dangerousくノ一」。存分に味わってください。
M1 「CGギャル」
可憐で強烈な拳の連打、M1「CGギャル」。うねるベースリフによって幕は切って落とされます。
旋律の限界ぎりぎりに詰め込まれた歌詞は、強い恋心の行き場を無くして危険な状態に陥る様と連鎖しているようです。
あまりにギャル。とんでもなくギャル。
チュープリという単語を久々に耳にしたけど、その言葉が出現しても違和感がないほど、あまりにギャル。
なのに、とても痛々しい。
「綺麗になったら言うんだ
そうね一昨日来やがれみたいな」
なんて狂おしくて切ない未練がましさ。
かと思えば
「本当の気持ち教えて
お利口さんにしているからずっと」
バブル期を演じるバチバチギャルには思えない、泣いて母親にすがるよう剥き出しになった弱さ。
意地っ張りギャルと純粋少女が交錯する世界。「女」がどれほど複雑で真剣に闘ってるか、思い知らせてやると言わんばかりの戦線布告です。
M2 「サイノロジック」
今後のアカシックの核になるようなキラーチューン、M2「サイノロジック」。これをためらいなく2曲目に持ってこれる余裕に脱帽です。
今までのアカシックになかったような心地よい清らかさと疾走感。
なのに歌詞を読むと、え、この曲がこんなに切ないなんてと面食らうこと必至。
「セーシェルのあたし」、「月を小指に連れてあくびする昨日」などなど、80年代歌謡曲のような汚れのない言葉が耳に注ぎ込まれます。
その一方で「ヤニ臭い程サイノロジー」なんて言うところが理姫さんらしいナマの感覚。
「半端なガラクタになっていく気がするの」
透明さに身を委ねていると、急にこういうフレーズが胸を刺してくる。やっぱりキラーチューン。
M3 「香港ママ」
言わずもがな第1印象は、踊りたくなる遊び心!
けれど、隙間に入り込むフレーズが格言めいていて、油断していると痛い目に遭う。それがM3「香港ママ」。
「人生ほとんど酔拳」とか、「どうして港は香るの」とかね。
蝶のように舞い、蜂のように刺すとでも言いましょうか。
M4 「溺愛」
邦楽の歌詞って「好き」「愛してる」を多用すると非難される傾向があると思うんです。けれど、それはおそらく「好き」「愛してる」という言葉そのものに責任はないんですよね。
その言葉が出てくるまでの描写や表現があまりにストレートすぎたり、工夫を凝らしていないように感じられたりするときに「愛してる」ばっかりだな!と揶揄されてしまうような、そんな印象があります。
ですがこのM4「溺愛」は、「どれほど好きか」という表現が見事なものですから、「愛してる」という言葉がサビに鎮座しても嫌味にならないんです。
「片目で見ても ほどほどにしても
恥ずかしくても ほっといても好き」
愛の深さは容易く想像を絶するのです。
最後に「好きかも」と照れるように歌うところが、前代未聞の愛の大きさに自分でも驚いているようでキュン。
M5 「ベイビーミソカツ」
愛している。けれど、満足していない。
恋愛の歌って「これから」と「さよなら」がどうしても多くなるのですが、実際恋愛してみると上記のような気持ちの方が圧倒的に多くありませんか。
好きでいたいのに退屈してしまう、そんな絶望には届かない憂鬱さが胸いっぱいになるとき。
M5「ベイビーミソカツ」の歌詞はそんな気持ちをあぶり出します。
花火だって、朝陽だって、見ているものは同じでも、気持ちは移ろいでしまう。
そんなやるせなさが詰まった1曲。このアルバムの中の「どうして私のことこんなに知っているの」大賞です。
M6 「真夜中のクローンラベル」
奥脇達也氏のセクシーボイス炸裂。
気まぐれに浮遊する音たちの暗くて柔らかい世界。
よくわからないタイトルすらお洒落。
それがM6「真夜中のクローンラベル」。
もう、持っている武器は先に教えておいてくれ。じゃなきゃ不意に心臓を射られてしまう。
悔しいのは、相手に対してなのか。それとも自分に対してなのか。
終わらない後悔や自問自答が続くかと思いきや、「明日も仕事だ寝なくちゃ」と締める。
そんな虚しいやり過ごし方まで含めて、とてもリアリティのある気だるさ。
アカシックが作る世界が、アルバムを出すごとに拡大している実感を得ます。
M7 「女」
「君が思う イカシタ女
あたしが絶対見せてあげる」
このアルバムの真髄、M7「女」。
こちらは「溺愛」とは対極で、「好き」「愛してる」を使わずに感情の強さを表現し尽くす曲です。
君の理想(「イカシタ女」)にはなりたいんだけど、決して自分らしさを崩したり、へりくだったりする訳ではないんです。格好良い。かと思えば時々見える素肌みたいな本音が超かわいい。
M8 「オールドミス」
気高くて優しくて凛々しくて、嫌味のない色気もあって、とにかくそんなステキな形容詞たくさん並べたくなるような魅力目白押しのM8「オールドミス」。
局地的な感情を歌っているというよりは、まるで座右の銘として携えたいような、街中でへこたれず歩くためのBGMにしたいような、押し付けがましくない自負がある曲。
「オールドミス」とは結婚してない売れ残りという意味なのですが、決して自虐的ではないところが素敵。
気ままに、誇らしく。
これぞ、令和の時代のスタンダードになってほしい曲です。(発表時は平成27年ですけど)
M9 「さめざめ」
今までの作品で見せてきた愛の生々しさ、忘れたとは言わせないわよ。
そう言っているかのようなラスボス、M9「さめざめ」。
先程までの濁りのない水気が突如血と涙に塗り替えられたごとく、露呈する絶望感。
懸命に立ち上がろうとするものの、苦しくて苦しくてもがいていることがひしひしと伝わります。
「糞だるい不在の輪郭を抱きしめている朝だ
また朝だ 朝だ」
「寂しい」という感情をどうやったらこんな風に書けるのか。
随所に言葉の化学反応が起きていて、とんでもなく痺れます。
「あたしはピンヒールに命がけです」
「関係をまた愛したいという趣味の悪さ」
愛の重さ、愛ゆえの憎しみ。
愛と自己の間で揺れ動く不安。
理姫さんの必殺技です。
本当の「女」の姿
「女」という言葉は、成り立ちから考えると私たちを閉じ込める監獄のようです。
けれど、「女」ってもっと、本当はもっと深く、広く、繊細さも大胆さも兼ね備えていて、黙って跪いてあげたりなんかしない、自由な存在。
誰かと私を好きでいる気持ちに素直でいられる存在。
例え危うい恋であっても妥協しない存在。
そんな真っ直ぐな生き方を、恋の仕方を感じられるアルバムが「Dangerousくノ一」です。
宵の街で生まれた「コンサバティブ」、尖ったピンクオーラ満開の「プリチー 」と比較して「落ち着いたね」という印象をこのアルバムにお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
でも、それは大きな勘違い。
むしろ今作は、理姫さんの視線がこんなにも世界の隅々まで届いていて、アカシックの演奏力がそれを表現し尽くしていることを思い知る衝撃作なのです。
最も危険なのは、この作品を聴かずに終わることかもしれません。
公式弾いてみた
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裏切りで始まるアルバム、コンサバティブ
突然ですが問題です。「コンサバティブ」とはどのような意味でしょう。
ヒント1。いわゆるファッションの「コンサバ系」の「コンサバ」のことです。大人OL女子の着回し21daysとかに出てきそうなやつです。
ヒント2。政治でも使われることのある単語らしいです。らしい、ということしか調べてもわかりませんでした。教養というものは大事らしいです。
ヒント3。この現代アートが擬人化したようなCDジャケットのアルバムが「コンサバティブ」というそうです。
正解は「保守的な様、またはそのような人」です。ヒント3が完全にあなたを狂わせたでしょう。どこが保守なんだと。
ジャケットの女性から滲み出ている、保守どころではない刺々しいオーラと冷ややかな視線。
このアルバムは、まるでドキュメンタリー映画のように丹念に同じ女性の有様をとらえ続けます。アルコールの匂いを全身にまといながら最終列車で感情がこみ上げる女性の姿に、堂々巡りをしてしまう私たちの心の葛藤を重ねずにはいられません。「ナマ」の感覚が肌にまとわりつくような言葉の波が押し寄せ、噛り付いて1冊の小説にのめり込んだような瞬間にトリップしてしまいます。さあ、酒を肴にこのアルバムを聴け。
アカシックって?という方はこちらもどうぞ。
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雛 気まぐれな少女の不器用さに遭遇した日
アイドル。
人の欲望に答え続ける仕事。見た目も歌もダンスも言動行動も、すべてを晒し続ける仕事。誰かがその存在に「偶像」という意味をあてがったのに頷くしかできない、尊い仕事。
やれ選挙という名の株主総会みたいな行事を開催したり、やれメンバーカラーという戦隊ヒーローのようなキャラ付けをしたり、「差別化」は死活問題だ。その集団がいかによそと違う集団なのか示すために試行錯誤が繰り返されている。
かといって、集団に属するメンバーにとって、その集団の色から外れることはご法度だ。出る杭にはならず、個性を埋もれさせず。業界という赤い海に飛び込む集団は、さらにその集団内でも生存競争が求められている。
それが私にとっての、超勝手なアイドルの定義。
これほど厳しくて過酷なプロフェッショナルの世界を生き抜く人々を支持する人だって、それはもう相当に熱い思いなのだろう。同じCDをジェンガのように積み重ねる人々をSNSで見かけては、その健闘を称えるとともに、私とは違う世界の人々だと思っていた。
だって、入り込むことは怖いんだもの。
もうアイドルのオーディションに申し込むこともできない年齢にもなって、周囲が結婚だの育児だの人生のイベント話ばかり持ち掛けてくる日常の中に、そんな熱い世界を持ち込む余裕が私にあるとは思えない。アイドルは、遠い世界の話。私は勝手にそう決め込んだ。
どうしてその動画を見てしまったのか、覚えてない。
見てしまった動画の衝撃が凄すぎて、そこに至る経緯が記憶からぶっ飛んでしまった。
ある1人の少女の様子がおかしい。
曲が始まって数十秒で、その場に座り込んでしまった。
少女はふてぶてしい目つき、悦に浸る口元を見せつけながら、華のない階段状のステージを、まるで大富豪が腰かける重厚感たっぷりな椅子がごとく使っていた。ざらつきと鋭さを感じる声で自分のソロパートを歌い切った。
そのまま、その場を去るようにすっと立ち上がり、集団のダンスに混ざっていった。
何が起きたかわからなかった。
私の記憶の中のモーニング娘。は、日本の未来をWOW WOW YEAH YEAHしてくれるイカした姉ちゃんのグループだった。時代の象徴だった。
そこから、赤い海を生き抜くためにパフォーマンス集団として研鑽し続けているらしいと、風のうわさには聞いていた。例えるなら、「あの店、めっちゃ美味しくていつも行列すごいらしいよ。知らんけど。」くらいの認識。実際、その動画に出てくる少女たちは、歌もダンスも本気で真正面からぶつかってくる。前評判どおりである。
ただ、あのステージを大富豪の部屋に変えてしまった謎の少女だけは、「異物感」があった。何が起きたかパニックになり、何度もその部分を繰り返し再生したが、その「異物感」はずっと残った。
遠い世界だと思っていたのに、いつの間にかMVから彼女を見つけ出し、目で追いかけることに没頭した。
わかったことは、大変に不器用な少女であるということだった。
「そんなこと言わなければ楽なのに」とか、「もうちょっとうまくやんなさいよ」とか言いたくなるようなことが目白押しなのである。細かい事例はありすぎるから省略するとしても、少女はあまりにも偶像としてのアイドルの枠におさまってくれない。偶像どころか、野性的、かつ感覚的な生き方をしている、相当に変なアイドルである。矛盾だらけ、間違いだらけ。「異物感」はこのあたりから来ていたのだろう。
ずっと少女はもがいているように見える。発展途上な自分からの脱却を目指して、裏目に出ることもあれば、突然大成功を収めることもある。
いつの間にか、「異物感」が「推し」という認識になった。
アイドルを遠い世界だと思っていたのに、まさかの出来事。
親せきの子どもくらい歳の離れた少女のビジュアルフォトブックを買う日が来るなんて思いもしなかった。
なんで、と問われても理性的な回答はできない。もう、ただただ「好き!」なのだ。
沼ってこれか、盲目ってこれか、と聞いたことあるけど経験のなかった言葉を答え合わせしている感じ。
なんとか言葉にするとしたら、うーん。
おそらく、少女はまだまだ試行錯誤するのだろう。
叫ぶように絞り出す歌声も、感情の起伏がそのまま表れたようなダンスも、突如仕掛けてくるトリックみたいなパフォーマンスも、気になって気になって仕方ない。成長していく過程を見届けたい。不器用な輝きを追いかけたい。
佐藤優樹さん。ありがとう。知らない世界を知って、私は本当に楽しい。
アプカミ#90 モ娘。20周年企画、モ娘。’17、J=J、中島卓偉、ラベンダーライブ映像ほか 田中れいな(LoVendoЯ)、尾形春水(モーニング娘。'17) 10/27/2017
遭遇した動画は4:57から。
三角の硝子 水着発言で話題の…
モーニング娘。誕生20周年記念コンサートツアー2017秋~We are MORNING MUSUME。~工藤遥卒業スペシャル
ベスト!モーニング娘。 20th Anniversary
15Thank you,too(初回生産限定盤)
女 平凡な私にギャルをインストールした日
とにかく新しいことが苦手である。飲食店では「いつもの」が大体決まっているし、箪笥は無難な白と黒と茶色だとかベージュだとかがぎゅうぎゅうに詰まっている。
時々、店の隠れメニューを頼んで当たりだった人がうらやましくなる気持ちもわくけど、モブキャラみたいな目立たない格好をした私は「変わり種なんて失敗のほうが多いんだし」と思ってそれを横目にやり過ごしている。あまりにつまらない保守的な人生を歩んでいる。
普段見ない時間にテレビをつけた。こういうタイミングで出会うことを人は「運命」と呼ぶのかもしれない。
見知らぬ金髪の女の子は、あまりにあっけらかんとした話し方であった。泥酔して便器に顔をつけたまま寝てしまい、顔がブルーレットの色に染まったことを、軽快に笑いながら話していた。
保守警報が鳴り響く。私とは明らかに違う人間だ、と警戒している。金髪にピンクのワンピースを着たその子は、ガールズバーにいただの、バカヤロークズヤローという歌詞を書いただの、とかく私とは離れた世界の話をしていた。いつもなら、そこでテレビの電源を切っていたっておかしくなかった。
けれど、なんとなくその番組を見続けた。他にも出演者がたくさんいる中で、その子の様子だけを観察していた。
その子と私を因数分解することのできる共通項は、おそらくない。
化粧品で言うなら、クリスチャンルブタンとちふれくらいの差がある。女性として、同世代として、生きてきた軌跡がまるで違う。感覚的にそう判断した。それでも、なぜかその子が気になって仕方ない。言葉の選び方が、えらく見た目と違うのだ。破天荒なキャラで売り出したいギャルの風貌をしているのに、話し方が、佇まいが、たおやかなのだ。
そういえば、歌詞と言っていた。この人は歌を歌っているらしい。
新しい音楽を聴くこともなくなっていた。知らない音楽のために動画サイトを延々徘徊することも数年前の出来事だった。テレビ番組が終わるや否や、私は「知らない音楽を聴くため」という久しぶりの動機のために動画サイトにアクセスした。
一番上のサムネイルの中に、先ほどまで観察し続けた女の子がいた。
曲を聴いてもなお、その子を一言では説明しきれない状態だった。
テレビ同様、ギャルが好き放題に歌っているようにも思える。それなのに、惚れた男を「つばめ」扱いしたり、「誤解」を「素敵」という言葉で飾ったりする。
喉が焼けるほど甘ったるいお酒を飲んでいたはずなのに、いつの間にか苦みがよく出たコーヒーにでも変わっていたのだろうか。それくらいの錯覚というか、落差があった。
新しいこと嫌いはどこへやら。いつしか、関連動画を漁る日が続いた。毎日毎日、もう普通だったら嫌になるだろうというくらいに聴いた。ああ、「無罪モラトリアム」と「勝訴ストリップ」を買ったときもこんな状態になったな、と思い出した。
今までのCDも全部買った。知らない土地までライブにも行った。こんなに燃料を使ったのは何歳の頃以来だろう。
日にちが経ってから、やっと少しずつ言葉にできるようになった。
あの日見た理姫という女の子が、なぜこんなにも私の中にするりと入りこんできたのか。
まるで私と違う人だなと今でも思う。私はホステスにはとても見えないし、つばめ君なんてできたことも今後できることもないし。
なんだけど、理姫さんが描く「女」という生き物に、いつもぞくぞくする。
たぶん俗っぽい呼び方ならば、ギャルとか、メンヘラとか、そういう「女」の姿を描いている歌詞なのに、本質としての「女」、生き物としての「女」がいる。ファッションのように着飾る歌詞ではなく、血と温度を持って生きているような気がする。
そんなわけで、彼女が日々アーティストとしてアップデートを続けるのを、ひたすら受信しようとしている。
新しいものを手に入れたくても手に入れられずに斜に構えている奴ら、今に見てろ。私の選択は間違ってないから。
コンサバティブ
プリチー
DANGEROUSくノ一
凛々フルーツ
エロティシズム
茎 依存するように同じCDを聴き続けた日
高校生の途中くらいまで、カラオケと友達からかTSUTAYAで借りたCDとテレビ番組、それくらいしか私の「音楽」という世界はなかった。
「流行っているね」「聞いたことある」「私も好き」、この3つが言えれば「趣味:音楽鑑賞」と書いてOK、くらいの世界。わざわざ中古のCDを買いに行く人や、テレビのランキングにいないバンドにのめりこむ人、周りにいないわけでもなかったけど、「私と違う人」どまり。それが私の「音楽」。
ある日偶然入った近所の古本屋で、突然気になるアーティストが現れた。
大学受験が差し迫った頃だった。真面目な高校の雰囲気になじめていないくせに、高卒で就職しますとは言えずだらだらと過ごす毎日。とりあえず勉強している感だけ出したけど、劣等生すぎて予備校行くのも恥ずかしいし、クラスメイトに質問したら「なんでそんな小学生みたいなことも知らないの」と思われそうで嫌だし。そんな気分のせいでだんだん高校も休み始めた、出席日数が首の皮一枚で留年を免れていた頃。
友達から、名前を聞いてそのアーティストは知っていた。最初は誰だと思っていたけど、思い出してみればこの人は、何年か前に看護師の姿でガラスを蹴破っていた人だ。それはさすがに衝撃的な画だったので私の狭い「音楽」知識でも知っていた。今は東京事変という名前で音楽しているとか、誰誰が軽音楽部でコピーしていたとか、その程度の知識。
どうにもこうにも、目を離せない。なんだ、このCDジャケット。
あるCDは、人工的で無機質さのある若草色に、よくわからないペンキが落ちている。裏返すと、不敵な笑みを浮かべる「嫌な大人風」のおじさんが意味不明な言葉を書いた紙を掲げている。その後ろに、何の感情を抱いているかよく読めない顔で私を見つめるカメラマンの女性。
あるCDは、小学生の女の子の持ち物のようなショッキングピンクがベタ塗りされたようなジャケットだった。箱から歌詞カードを取り出せば、縦ロールの女性が花をバッグに笑っている。可愛いと言えば可愛いけど、なぜか背筋が張り詰める思いがする。ただのロリータファッションの女性ではないことだけは察することができた。
カメラマン、縦ロールのロリータ、看護師、すべて椎名林檎という同一人物の女性だということは、CDのクレジットをちゃんと見るまで気付かなかった。
この2枚を買うかどうか、ひたすらに考え込んだ。これを買いたくて来たはずではないのに、どういう訳だか買わないといけないような気分になってしまっていた。直感を信じた。
これはとんでもない買い物をしたと気づいた。
一貫して、この作品は彼女の秩序にまみれている。
舞台装置のように統一感を持った語彙、冷たい視線と弱音の軋みを感じる歌い方、「ありがち」という言葉とは乖離したメロディライン。歌詞は理解できる部分のほうが少ないかもしれない。「共感」とか「等身大」という言葉をなんとなく近づけることができない。それなのに、切迫した声が、己の道を突っ走った音が、なぜか心の奥にずしんと重く残るし、耳から離れてくれないフレーズばかりなのである。
JR新宿駅の東口なんて行ったこともないし、セヴンスターがどんな香りなのか想像もつかない。私の知らない世界の言葉ばかりが散らばっているこの世界に、当時の私は深く、深く沈んでしまった。
やさぐれた気持ちで参考書を開きながら、いつも「無罪モラトリアム」と「勝訴ストリップ」を聞いた。どう考えても参考書がおまけで、CDがメインだった。今日はどっちから聴くと決めて、最後までたどり着けば最初の曲に、ということを繰り返した。おかげで、「モルヒネ」の「次の曲」は「正しい街」だし、「依存症」の「次の曲」は「虚言症」なのである。
最早、同じ屋根の下で暮らす家族のほうが聞き飽きていたに違いない。「あんたの好きな音楽は暗い」と母親に言われたのは、間違いなくこの時期だ。
その後、東京事変名義も含めて他の作品にも出会った。彼女が確固たるアーティストとしての立場を築きあげた理由には合点がいくし、常に進化することを辞めない、気高くて強い人なのだと尊敬している。
なんだけれども、どうしてもこの時期の椎名林檎作品から脱却できない私がいることも事実なのである。頭ではわかっていても、とはまさにこのこと、もはや病気のようだ。
このCDに出会って以降、「流行りの歌」がどうでもよくなった。鋭い刃のように刺す言葉が私には優しく聞こえるのはどうしてなのかを知りたくて、何度も何度も歌詞カードを読んだ。あのCDとの出会いは、私の生き方の、嗜好の、価値観の芯になった。
「私」は初めて椎名林檎によって生まれたと言ったら、「暗い歌」呼ばわりした本当の母親が泣くだろうか。
そんなわけで、椎名林檎本人が変化を遂げるスピードに私はまるで追い付けない。最初に受けた衝動が大きくて、まだそれを自分が飲み込み切れていないような気がしてならない。
彼女の音楽活動が世に普及して20年ほど経つが、その功績を私がすべて飲み込むには、おそらく人生が何年あっても足りない。せめて、私が後で生まれてよかった。私が先におばあちゃんになってしまったら、咀嚼しきれないものを山ほど残して息絶えるという恐ろしいことになっていた。
新品のCDを買うつもりだったのに、結局あのときの中古CDを売れないでいる。
バンドスコア
下剋上エクスタシー