いつものえがお #ちびまる子ちゃん展 #りぼん展
ちびまる子ちゃん展が終わるまでに書きたかった。行けないんだけど。りぼん展には行くつもり。
さくらももこの訃報は、人生で耳にした訃報の中で最も辛かった。私が生きてきた数十年の中で、青天の霹靂という言葉を初めて使う機会だった。こんな悲しいことに使いたくなかった。
なにせ、急すぎて困るのである。
(あ、ところどころキートン山田さんで脳内再生してくれて構わないよ。)
さくらももこは、ずっとずっと長生きして私に楽しい年老い方を教えてくれると信じていた。なのに、こんなに早くにお空に行っちゃうなんて、私も誰も思ってなかったのである。
「鼻血を出して皆に介抱されている子ってカッコいい」という訳のわからない憧れを抱いてしまい、鼻血を出すために躍起するまる子に私は憧れた。*1
バカ、嘘だろ、と思うじゃん。まる子が誰も見ていないところでうっかり鼻血を出してしまって誰にも介抱されずに惨めに終わるというちゃんとしたオチまでついているのに。それでも、私はまる子になりたかった。
いや、まる子が叶えられなかった「鼻血を出して皆に介抱してもらう」夢のバトンを私が受け継いでやる、くらいに思っていた。まさか、あのまる子だって、平成になってから勝手に後継者が現れるとは夢にも思っていないのである。鼻をかむときは、それはそれは念入りにかんだ。
結果として、なぜか鼻の粘膜が異常に強くて花粉症にもご縁のない私は今でも鼻血が出ていないし、こういう女に限って弟はやたら鼻血が出やすくてすぐ介抱されていたりしたのである。
何の苦労もせず寝ながら鼻血を垂らすほど鼻の粘膜が弱い弟に、もはや八つ当たりに近い羨望を抱いていたとは、さすがに介抱していた両親にはカミングアウトできていない。情けないにも程があるからである。
初めて食べた回らないお寿司は、子どものとき祖父に連れていってもらった。
本当は、目の前に貼られた「時価」という文字に感動しなくてはいけないはずなのに、やれローラースルーゴーゴーを買っていないから私は安心だの、やれ玉子巻きを一番最初に食べて寿司屋の腕を見なくちゃいけないだの、邪念ばかり抱えながら縮こまって食べた。
友蔵とは比べ物にならないほど堅物で怖かった祖父に、なんとも失礼なことをした。でもまあ、隣にいた父(回る寿司に行けば上機嫌で羽を伸ばして山盛り食べる)も縮こまって食べていたから、我が家のお財布事情ではそれで正解だったかもしれない。
何せ、日常にまる子がいた。そういえば、というレベルではなく。
背後霊くらいの距離で、「とほほ、高いお寿司の味もわかんないなんてあたしゃ情けないよ」と耳元で言ってきそうな距離で、私のそばにいた。
ひろしの言った「大人になるってのは自転車に乗れるってことなんだ」という言葉はわかるようでわからなかったし、丸尾くんが暴れて「うおーったあああ」と絶叫したときにクラスメイトが「ヘレンケラーかよ」と突っ込んだ意味も当時は理解していなかった。*2
百恵ちゃんやリンダがどれほど凄い人なのかちっとも知らなかったし、ビートルズとずうとるびは結構本当に大人になるまでどっちがどっちか怪しかった。オノ・ヨーコにはそんな低レベルなことイマジンできないだろうし、山田くんに私の座布団を持っていってもらうしかない。あ、3年4組のほうの山田じゃないじょー。
玉ねぎ頭のクラスメイトも、お抱えの執事を連れたクラスメイトもいない。タイプの違うヤンチャイケメン二人組なんていれば女子は大盛り上がりなんだろうけど、はまじよりも全然面白くない男子がゴロゴロと群れているだけだった。
誰も卑怯じゃないし、誰も胃腸が弱くない。掃除当番でうるさい子はいるけど、あんなに大きく鼻提灯は膨らませてくれない。影でそれをクスクス笑う子もいない。
わかっていないこともたくさんあったし、親近感があっても自分の日常との類似性はなかった。
なのに、まる子はそばにいた。
ショックなことがあれば、一緒に顔じゅうに縦線を垂らしてくれた。ちょっとずるいことを思いつくと、いつも隣で「あんたもあたしも賢いんじゃない?」とニヤニヤしてくれた。それをやんわり「駄目だよそんなこと言ったら」と止めてくれるたまちゃんもいた。
さくらももこは、そうやってたくさんの私たちのいつもの生活に入り込んだ気がする。
普通だったら自分の中だけにとどめておくような小さなエピソードや失敗、喜びに、愉快なオチをつけてくれる不思議な妖精みたいな存在。それが、ちびまる子だった。
プサディとの友情やたまちゃんとのタイムカプセル、お姉ちゃんのノートに「バカ」って書いたこと、校庭で捨て犬を世話した話、お父さんとお母さんがくだらないことで離婚騒ぎを起こしたこと、びっくりするというかおこがましいというか、「そんな漫画を読んだなぁ」という気分ではない。「そんなことあったね」の方が近いのだ。
要するに、例えば私は南の島に行ってもないくせにプサディに会ったことがある気がするような、「私」の実体験の中にちびまる子のエピソードがある、そんな感覚なのだ。
この感覚のすり替えというか、とても自然な侵入みたいなのは、さくらももこ自身が書いたエッセイを読んだ後も度々起こる。
友蔵と違ってロクでもないジジィが死ぬときのエピソードなんか、もしもちょっと遠目に(客観的に)あのエッセイを読んでたら「いくらなんでも祖父のXデーにそんなこと思うなんて」と不謹慎に感じるかもしれない。けれど、さくらももこの感情が心にするりと入り込んだ私からすれば抱腹絶倒のエピソードが目白押しなのである。
睡眠学習枕という、わかりやすいほど怪しくてうさんくさい機械に、幼稚園児レベルの下ネタ*3を吹き込んだ父の話なんかはもう忘れたくても忘れられない。
その第一声のことを「バージンボイス」なんてえらく艶っぽく名付けるもんだから、枕が記憶されられた下ネタ*4の頭の悪さが際立って仕方ない。壇蜜の吹き替え声優がジミー大西だったらそれだけで笑うだろ、みたいな対比なのである。
そんなこんなで、どこまでがさくらももこの書いた話でどこからが私の思い出なのか疑わしい人生を歩んでしまった。
だから、実はさくらももこのエッセイの中でも、彼女が母になってからの書籍はまだ全部読んでいない。意図的に、である。
私が子どもを産み、育てることになったときに、彼女のエッセイと一緒に歩みたかったからだ。
さくらももこは、あまりに日常を豊かに描きすぎる。
他の人なら見落とす「クスリ」とする場面を、零さず拾い集めてくる。そんな人だから、きっと前途多難になるだろう私の子育ての場面でも、ちゃっかり隣にいてほしかったのだ。そう思うと、私って超エゴイストかもしれない。
それがどうした。さくらももこが53歳なんて若すぎる歳でお空に引っ越してしまった。
清水の次郎長に、お前さんはまだちょっと早いなってつっかえしてほしかったよ。あたしゃ。
訃報を知ったとき、早すぎて私の人生までお先真っ暗になった気分だった。
子育てを終えた後は、しっかり「クソババア」になってもらって、「近頃の若いもんは」なんて呟いた途端にしっぺ返しをくらうようなオチをつけてもらって、老人ホームにいる年寄りに「彼は喉をつまらせるくせに餅ばかり食べたがる男」とか「あの人は中森明菜ばかり大声で歌う女」とか、いろんなキャラクターを発掘してほしかった。
そして、「あたしゃいよいよ死ぬのか、まあでも楽しかったねえ」と言いながらニコニコ幸せに死んでほしかった。その辞世の句代わりのエッセイを読んでニヤニヤしながら、私もいよいよかと老人ホームの入居手続きを済ませたかった。そんなバカなことを勝手に、でもちょっと本気で夢見ていた。エゴイストも極めるとやたら設定がやたら細かい夢を見るようだ。
それくらい、私にとってさくらももこは人生に欠かすことのできない人だった。漫画家というジャンルではなくて、私を構成する大きな要素として、欠かせない人だった。
さくらももこが描いていない世界を歩くのは、ちょっとだけ怖い。どうやって笑おう、どうやって楽しもう。そんな気持ちが心の片隅にある。
でもまあ、なんとかなるんだよな。今までの作品を思い出せば、きっと。
苦手な人も心の中でキャラクターみたいにしちゃって楽しくしちゃえばいいし、ショックなことが起きても凹むんじゃなく次のコマには消えてなくなってる顔の縦線で済ませちゃえはいい。
子育てをする頃に、残されたさくらももこ作品を読んでケラケラ笑ったら、そのあとはニコニコ笑顔で時々失敗する我が子をうんと可愛がればいいや。
さくらももこなら、きっとそうする。
クリームソーダのソーダとアイスクリームの間のしゃりしゃりが美味しいんだよね、と言ってくれる彼女だったら、きっと小さな幸せやいつも通りの笑顔をちゃんと大切にする。
さて、その前に、我が子がいない自分の人生設計をどうするか考える方が先である。
りぼん展が待ち遠しい。
先に書いたりぼんへの想い出。小花美穂推し。
普段はこんなブログ書く人です。